満月に降る


 
 見上げた夜空には大きな月が輝いていた。光がこれほど澄んで見えるのは空気が冷えているせいでもある。吐いた息はかすかに白く変わった。
 刻限はもう日が変わるような頃合いだ。こんな自宅でまったり寛いでるべき時間帯に、冷えた街中を駆け足で移動している自分は不幸な部類の人間なのだろう。心底恨めしく思うが、己の従事する里長からの夜分の呼びつけを反故する理由を持ち合わせはいなかった。つい今しがたまでの残業で疲労の蓄積しまくった身体とはいえ、自分はまだまだ下っ端なのだ。
 澄んだ空気だった大通りから脇へ逸れ、石畳の路地を進む。目的の場所はもう少しだった。店たちの間から灯りの零れる路地には、室内の賑わいが壁や窓を隔てて聞こえて来る。
 たどり着いた目的地で、気のいい店員に案内されて向かった中庭に面した個室。引き戸を開け途端に漂うアルコールの臭気の中、酔いどれた大人たちが飲食物の並んだ机を挟み、やんやと何やら楽しげに会話を弾ませていた。

「お、ご苦労ご苦労!」
「来たな。ギブアップしたやつ」
「シカマル君、お疲れさまー」
「…お疲れ様っす」

 すでに酔っ払いのテンションの面々に、素面の自分は受け流す意外の対応を仕兼ねる。確か今日は成人したばかりの来賓を交えた「特別上忍昇格試験の情報交換のための食事会」だったはずだが。この酒豪の里長は、シズネとゲンマという里の大切な上忍を巻き込み、交流にかこつけて酒の宴を開催せしめたのだろう。

「喜べ、シカマル。今日も一日働きづめのお前に里長が直々に役得を与えてやるぞ!」
「…はあ」
「大切な来賓をいつもの宿まで送る名誉を与える!」

 巻き添え食わされていることは分かっていたが、先より言葉を発していない件の来賓を見る。綱手の横でだんまりを決め込んでいる人…年上に遠慮するような性質ではないとは思うが、視線のゆるさと顔色を見るにそこそこ酔っているらしい。しかし、同席の相手に緊張を保っているのだろう。まだまだ理性が残っているようだった。

「――はい」
「オマエはいっつも覇気がないねぇ。ったく最近の若いやつは」
「砂隠れのお嬢さんは申し訳ねえが、このぼんやり中忍で我慢したってな」
「いや…そんな。じゃあ、早速だが頼む」
 
 テマリはすぐさま立ち上がり、抜けどころなく綱手に明日の予定の確認し礼を交わした。

「夜も遅い、気をつけるんだぜ。」
「大丈夫っす」
「阿呆、テマリちゃんに言ってんだよ」
「はっ、こいつが下心抱こうが、テマリをどうこうできる力量なんぞないだろーが」
「しかし、中忍試験ん時みたいなて嫌らしーい手を使ってくるかもしれないですよ」
「――心配には及びません」

 思い起こせば件の試験で審判だった人に対してテマリは端的な応えを返す。テマリ自身も周りの砕け切った様子に戸惑っていたのかもしれない。自分の後ろを彼女が着いて来ているのを確認しながら出口に向かう。

「シカマル!くれぐれも送りオオカミは駄目だかんな」
「そそ。酔ってる女の子に漬け込むのはだめだよ!」
「お前にそんな度胸あるわきゃないかー?」

 酔っ払いの戯言は無視するに限る。店の人に挨拶をして冷気の立ち込めた路地に出た。室内が熱気があった分行きよりも寒さが染みた。

「あー…空気が気持ちいいな」
「あんた、飲みすぎだろう」
「そんなに飲んでないぞ?それに、あのメンバーでは飲まないわけにもいかないだろ」

 まあ、あのメンバーと一緒に酒を酌み交わしていようもんなら、本当の酒豪でない限り酔うのが普通だろう。成人したばかりの来客なのだから周りも手加減はしているはずだ。日常的に綱手が主催する宴会解散後のメンバーは死屍累累たる有様なのだから。

「…じゃ、ちゃちゃっと帰ろうぜ」
「ああ」

 ここから彼女の宿まではさして遠くはない。ちょうど自分の自宅の方角でもある。大通りを渡り、暗くなった商店を抜け宿の多い地区を目指して進む。時間が遅いせいで繁華街と比べると人通りもほとんどないが、澄んだ空気に降り注ぐ月光が街灯替わりになった。

「長い時間、何の話してたんだ?」
「他愛もない話だったなぁ。面白かったぞ」

 やたらゲンマが中忍試験のネタを振ってきていたから、彼女を交えて、過去の出来事を肴に呑んでいたであろうことは想像に難くない。

「どうせ五代目たちと意見交換なんてできてねぇんだろ?」
「あー…冒頭はちゃんと話してた…けど、酒が進むにつれて脱線して」
「やっぱな」
「そーそー。ゲンマ上忍が私達の中忍試験の話を持ち出して、あの時、の、ぅあ!?」

 隣りを歩いていたテマリが唐突にかくんと躓く。咄嗟に回した手が間に合ったおかげで、地面への衝突を免れることができた。
 
「おい、あぶねーな…」
「だいじょぶ」

 ちょっと饒舌になってる程度にとらえていたが、かなり足元が怪しくなっているらしい。普段から考えるとこの状況はありえない失態だろうに。

「ったく。言わんこっちゃない…ほれ」
「…なんだ」
「肩かせっての。危ないだろ、あんた」
「バカにするなよ?わたしをダレだと思って…」

 脇に回そうとしていたオレの手を勢い良く振り払い、そのまま前進した途端にまたカクンと膝から後ろに体が傾ぐ。慌てて背中を支えたがすでに遅く、テマリはすてんと尻もちをついていた。こりゃ駄目だ。

「…アンタなぁ」
「あれぇ…濁り酒のせいかな。あれは後から来る酒だったのか…?」

 ぼやきながら首を傾げている姿はやたら無防備だ。この状態ならば。

「――乗れ。早く帰んぞ」
「……」

 背負う体勢を取り振り返る。無言のテマリは不本意そうに口を歪めている。

「むくれんな…ここに尻もちついてるより早く帰った方がいいだろ、砂の上忍さん?」
「…ふん、せいぜい使ってやるか」

 可愛げない台詞を吐きつつも首元にしっかり腕を回してくれる。ごちゃごちゃ機嫌を損ねない内に、素早く彼女の両足に腕を回して担ぎ上げた。体重がすべてこちらにかかってくる…おお、これは想像以上にぬくい。

「…気ぃ抜いて手を放すなよ」
「まかせとけ!」

 少し動揺したこちらの気持ちを吹き飛ばすように、彼女の返事はやたら陽気だ。酒のせいか何やら彼女はやたらご機嫌のようだった。

「あんた、やっぱりけっこう飲まされたんだな…」
「そんなこと、ない」
「呂律が回っ来なくなってんじゃねぇの?」
「…なんだとー?あ!」
「っ危ねぇ!」

 これまた唐突に彼女が後ろに体を逸らしたせいで、こちらの身体ごと後ろに倒れてしまうところだった。ありったけの力を腹筋に込めたおかげで踏みとどまれたのは良かったが、筋肉に鈍い痛みが残っている。

「すごい、満月!大きいなぁ。星も多いし――気づかなかったよ」
「ッくるしい!」

 両腕を俺の首につっかけて天を眺めていたテマリが、自分の訴えを聞きつけて慌てて体勢を改める。

「ごめんごめん」
「夜空なら、そっちのが地平線が開けてるからすげーんだろ?」
「んーー…風が強くて煙ってる日が多いしな…月ももっと遠くに見える」
「そうなのか?」

 晴天続きの砂漠の方が夜空の星も爛漫と見れるもんだと思っていたが。確かに、見上げた空の月は大きく、普段よりも多くの星たちが見取れる。

「よし、決めた。散歩いくぞ!」
「……冗談いうな」
「わたしは冗談はきらいだ」

 そんなことも知らないのか、という勝ち誇った顔がまざまざと見えるような口調だった。密着した距離のせいで彼女の表情は見えないが。さて、酔っ払いの気まぐれにはどう対処したもんか。

「そんな酔っ払らってたら散歩なんてできないだろ」
「面白くないこと言うなあ。わかった、これは命令だ。さんぽにつれてけ」
「オイ、ふざけんな。揺さぶるなっ…重い…っ」
「オンナに向かって重たいとはなにごとだ…?」

 両手がふさがっているせいで、防ぐ間もなくぺちんと額をたたかれた。人間の体重が軽い訳がないのに…理不尽だ。

「あんた明日も早い招集だろ。素直に宿に戻ろうぜ?」
「やだ」
「…やだぁ?」
「シカマルぅー。オマエいつからわたしに口答えできるようになったんだ?このだらだら中忍」
「酔っ払い…」
「そうだ、高いトコつれてけ。月が良く見えるとこな!」
「…めんどくせー」

 傍若無人な扱いに甘んじていると、脳裏に黒子の恰好をしたあの弟の顔が浮かんだ。そうか、あいつもずっと苦労してんだろうな。今度カンクロウに会った時には少し優しくしてやれるような気がする。この人の理不尽な命令は、無邪気さのせいで反論できなくなる威力があるのだ。諦めが出てくると深い溜息が自然と出た。

「…すぐに帰るんだからな?」
「あったりまえだ」

 彼女が知っているとは思えないが、ちょうどY字路を左に行けば俺の家という絶妙なタイミングだった。この刻限で行ける空が見やすい場所など自分は一つしか知らない。真っ直ぐに奈良家の裏山に入る山道を目指す。

「どこいくんだ?」
「黙っとけって。しゃべると体力が減る」
「弱っちろいなあー」
「……」

 これだけ饒舌な彼女は見ものだったが、なかなかに酔っ払いの相手は大変である。揚げ足を取られないようになるたけ会話は少なくするに限る。通り慣れた獣路に入り、この山の開けた場所を目指した。緩い坂道ではあったが、過負荷でバテないよう足の裏に力を入れて素早く駆け上がる。藪が少なくなり古い樹木が多い場所まで来ると、遠くにいくつもの光る瞳を見つけることができた。

「…けものがいる?」
「ああ、奈良家の鹿だ…お、リク丸」

 1匹だけ近寄って来る個体があったので歩を緩めていたら、この山の長にあたる牡鹿が現れた。あちらも自分の存在は判別できるので警戒の空気を纏ってもない。こちらの様子を見に来たらしい。

「遅くに驚かせたな、リク丸」
「…ご親族?」
「アンタさ、心底酔ってるよなぁ?」
「だって、なんだかおそろいの名じゃないか?」
「仲間だ」
「じゃ、リク丸も一緒に行こうよ。ちんたらしてんな、早く!」
「……こら」

 ぱしぱしと頭をはたくテマリ。リク丸の前で女に僕(しもべ)のように使われているのを見せるのは申し訳ない気分にもなる。自分は一族の跡取りなのにこの体たらく。けれど、どんよりした自分に相対して、牡鹿は飄々として自分たちの横を並走していた。

「おーい、馬力ないなぁ――シカマル」
「オレは馬じゃねぇ!」
「馬じゃないな…シカだろう?リクま…や、シカマル」
「間違えんなよ」
「似てるからしょうがない」
「こら」
「走れって!睡眠時間が減っちゃう」
「っ無茶いうな!」
「使えないなあ。代わってよ、リク丸?」
「こら!うちの鹿を馬扱いする気か……リク丸もその気になんなよ?」

 耳をしっかりこちらに向けてちらりと視線をくれるリク丸をやんわり窘める。この牡鹿は予想以上にサービス精神のある性格だったようだ。

「冗談だよ。鹿って神様の使いだろ。それに、この子のがお前より先輩格そうだ」
「センパイ格って何だよ。それより、ほれ、もう着くぜ」

 走ることなどできやしないが、精一杯足の筋力を使って歩を進めると、目指した場所が視界に入ってきていた。

「……お……へぇ―すごい」

 背中から感嘆の声が聞こえてくる。天を見上げる身体の動きも振動で直に伝わる。広がる星空に燦然と佇む月を見つめているのだろう。視界の端にいる牡鹿も一緒に月を見上げているのは微笑ましい。

「…なんでだろ?やっぱり砂漠よりもずっと月が近い」
「そりゃ…時期のせいかもな。寒いから空気は冴えてるし、今時分は月が一番接近してんだろ?」

 体勢が崩れないように気をやりながら自分も天を見上げる…やはり今日の月は近いようだ。その強い光は、手を伸ばせば触れられる薄い絹のようだった。テマリが思い出したように笑う。

「昔、がんばれば砂漠に見える星は手に入ると思ってた」

普段は論理的な彼女からの暴露にこちらも思わず吹き出す。

「…アンタなら大きな月の方を欲しがるかと思った」
「月は一つだろ?私が独り占めしたらまずいじゃないか。我愛羅やカンクロウもいるのに」
「あんた…そういうトコが長女だよな。傲慢大胆なくせして妙に謙虚」

 昔話を話すテマリの声は耳元から聞こえる。落ち着いた彼女の低めの声を心地よく感じる。白くなる呼吸を繰り返しただひたすらに天を眺めていると、駆け上がったせいで火照っていた身体はすぐに冷却されていった。逆に背中にある体温がやたら強調されて、気づいた途端に戸惑いを覚えた。

「ねえ、もっと高いところは?」
「もー無理だ。あっちは視界が悪くなる」

 先に進めば高度は上がるが、木々が原生林のままに生い茂っているのだ。

「もっと近くで見たい…」

やたら残念な声を上げる。そのような声を上げられると何とかしたい気持ちになる、が。

「ッおい―――」

 前後にぐらついたオレを見て、隣りでじっとしていたリク丸が跳躍して距離を開けた。酔っ払いの思慮もへったくれもない思考回路なのか、彼女は自分の肩に両手を立てよじ登り始める。これは無茶な――。慌てて片膝を地に着け重心を落とし、精一杯バランスを取る。

「……ったくめんどくせえなぁ!」

 無理やり肩車の位置を確保したテマリを、そのまま今日一番の力を込めて担ぎ上げた。成人した女を肩車ってのは相当にキツイ。もうちょっと体力の方面も自分は鍛えていかないとな、なんて今更な考えが頭を過(よぎ)る。

「やればできるじゃないか!高いぞ――なかなか良いな!」

 彼女がご満悦なのは何よりだが、こちらはバランス対処に精一杯だ。さらに追い打ちのようにそのまずい肉感のあるものに頭部を挟まれた状態で、男として気がそぞろになるのはどうしようもない。色々とやり場のない視線をうらうらと下方で彷徨わせていたら、ぐいと首を掴まれた。

「おい、お前も見てみろ―――」

 本当に容赦のない力だ。少しほてっているような両手で頬を挟まれ、強制的に天を仰がされる。途端に目に飛び込んできた、一筋ごとの光が射し込むような月。

「今までで見た中で一番おっきい。頑張れは届きそうだな――」

 テマリが片手を空へと伸ばし月に手を翳す。

「な、綺麗だろ?」

 光に重なり合い、真上から自分に降ってくるような満面の笑顔がある。声も体温も間近くから伝わる。今日は彼女があまりに近すぎる。そういや月が近いということは引力が強くなっているということなのだ――アルコールが浸透してきたようにくらりと脳内が回る。

「お、おいっ――わっ」

 無理強いの体勢と首の角度的にくらりとしたのは事実のようで、物理的に体が後方に傾(かし)いだ。

「!」
「っとお」

 すぐさま受け身を取ったが遅すぎる。素早く足を解いたテマリを巻き込んで下敷きにしてしまった。背中やら尻やらずっしり痛かったが、頭はちょうどテマリの身体の上にあって脳震盪を免れることができた。

「だ、大丈夫か…?」
「…アンタのせいだろ――」

 身体を起こしかけると、額を温かい手のひらが押さえつけて元の位置に戻される。後頭部を預けている場所も柔らかくて温かい…これは、偶然とはいえなかなか宜しい状態でもある。

「頭が振動してるかもしれないから、しばらくそのまま動いちゃだめだ」

 いつの間にか自分の肩を抱くようにしっかり片手が回されている。額と肩に力を込められた状態で、これではまるで動けない。

「ごめん。軟弱な身体にちょっと無理強いすぎたな」
「あんな体勢で片手なんか伸ばしたら、バランス崩すだろーが…」
「だって本当に綺麗だったんだもの?お前は鍛錬が足りないぞ」
「……」

 肩と額を包む手に力を籠めたまま、お前はしっかりしてんだかぼやっとしてるんだか、と独り言のようにつぶやきながら、普段よりも柔らかい笑顔で笑っていた。彼女の言うように頭が振動しているのか、目の前にあるやたら優しい笑顔が、近くで揺れているように映る。
 
「オレだって…昔は雲には手が届くと思ってた」
「へぇ、おまえもちゃんと子供らしいことも考えてたんだな」

 心底楽しいといった感じで微笑みを返される。今は酒の力もあるのだろうが、出会った頃と比べて彼女は色々な表情を見せるようになったものだ。テマリに密着している額やら方やら後頭部やらが、冴えた空気に対比して温かい。
 物体の距離は、近づくほどに引き合う力が強められると言う。どうして自分は、このほんの少ししか理解できていない、遠い里の人にこれほどに惹かれるのか。
 ゆっくりと彼女へ手を伸ばす。頬の柔らかさに指先が届いても、彼女は目を逸らすことなく成されるがままにしている。手のひらで彼女の顔を包むようにすると瞳を閉じた。耳の横から片手を滑らせて、柔らかい後頭部へと。後はただ力を込めてゆっくりと引き寄せた。
 彼女の前髪を額に感じた頃には、口元に空気を介して熱が伝えられる――すぐそこに。

「っ―――うわっ!やッ、、くすぐったい!」

やっと作り上げたこの距離をぶち壊し、静けさを打ち破る彼女の笑い声が響いた。

「…リク丸」

 いつの間にやら傍にやってきて、彼女の頬を幾度か舐めつけた牡鹿が、澄んだ瞳でこちらを見下ろしていた。お前にはまだ早いだろう、というような明らかな年長者の顔つきに見える。この長い付き合いの相棒をこれほど恨めしく思ったのは初めてかもしれない。

「私に嫉妬したんじゃない?可愛いヤツ!」

 ほんの少し前まで自分が捕えていたはずのテマリは、すり寄ってきた牡鹿へとあっさり興味を移してしまった。頭を微妙な高さに持ち上げ大変中途半端な状態だった自分を置き去りに、テマリはすくりと立ち上がる。毛皮に覆われた首筋から胴へと流すようになでつけるテマリを、リク丸は視線をはずさずにじっと見据えている。

「目がキレイ。艶やかな毛並みに美しい鹿の子模様だし、筋肉がしなやかだ…この脚で風を切って駆けるんだね――」

 片手でテマリが空気を掴むようなしぐさをする。少しのチャクラの動きで風がぐるりと通りぬけた。風を感じたリク丸は、目を細めて立てた耳をぴるぴると震わした。心地よい時の仕草だ。風が過ぎ去るとリク丸はテマリに頭を突き出すようにしている。繰り返し擦り寄るようなこの仕草は、相手を気に入っている時にするもの。

「なんだか…あんたのこと気に入ったみたいだな」
「ふふ。妬けるか?」
「…なんでだよ」

 やたら良い笑顔で、優しくゆっくりとその毛並みをなでつける。

「大好きだ――シカマル」

 酔っ払いは肝心なところを間違えたまま、リク丸の首に腕を回しその首元に顔をうずめる。大切な仲間とはいえ牡鹿と間違えられる気持ちときたら。

「…おい」

 今日の自分はこの無邪気な酔っ払いに翻弄されっぱなしだ。リク丸も人間のメスに好かれるのはまんざらでもなさそうで、彼女のスキンシップの成すがままにしていた。一瞬こちらを掠めた牡鹿の視線に、憐みの色を見とったのはオレの勘違いだと思いたい。

「おーいー…いい加減、そろそろ帰ろうぜ」
「そうだな、寒くなってきたし。そろそろ戻るか…ん?」

 ちょいちょいとリク丸が角をテマリに軽く当ててくる。

「どしたんだ、この子」
「…乗れってことか?」

 なんとなく感じ取ったことを言葉にすると、リク丸はこちらを見つめ返してくる。今度は胴をテマリに当てて来るので、体を引いた彼女は自然と自分の真横に追いやられた。リク丸は自分に歩み寄るなり、独特の鳴き声で意志を伝えて来る。

「危ないから背負ってけってよ…」
「お!気が利くなあ、リク丸は」
「…オレがやるんだぜ?」
「しょうがない、リク丸の依頼だもの。ほい、しゃがめ」

 最初のむすくれた顔はいつのことやら、嬉々としてテマリは自分の背を要求してきた。積極的な彼女も悪くはないが、先の致命的な間違いが未だ尾を引いてしまっているのだ。他の野郎に縋り付きながら名前を間違えられた男の気持ちなど、彼女は察してはくれないだろうが。

「よっこらせっ…と。あー重てぇ」
「…んだと?コラぁ」

 予想通りにまたぺちりと額を叩かれる。けれど彼女も本気の力を入れることなく、すぐに回した腕の一番居心地の良い位置を確かめていた。

「温かいし、楽ちんだなあ――」
「そりゃ、よーございました」
「さんぽは楽しいな?」
「アンタはそりゃご機嫌で楽しいだろーよ」
「うん、楽しい…」

 ほやんとした声が返ってくる。酔いももう覚めてくる頃合いだろうが、次は眠くなってきたらしい。顔を伏せているのか彼女の口調はくぐもっている。

「今後は酔っ払っても人の名前は間違えんなよ」
「――まちがえてない」
「…え?」
「冗談はきらいだと言っただろう…」

 首元に回されている手に力が籠ったのは気のせいではない。自分にしがみ付く力でその柔らかい体がさらに密着してくる。

「分かって……?」

 重要な情報を確かめるべく、慌てて首だけで振り向いた途端、ずっしりと彼女の体重がかけられてくる。意識が無い人間の身体が想定外に重く感じるのは、経験から知りえている情報だった。次いで柔らかな呼吸音。安心しきった様子で、すーすーと一定の間を持って呼吸は繰り返されている。

  牡鹿と並んで歩く帰路で、降り注ぐ満月の光が繰り返し彼女の笑顔を思い出させるから困った。
 今日なら、手を伸ばせばあの月も手に入りそうだ。


 

-了-

 TEXT-TOP | あとがき