雨降ル里 2


 部屋には火鉢が焚かれていて、空気がほのかに温められていた。狭い床に敷き詰めるように、艶やかな色合いの布団が敷かれている。そこまで導いてやると、シカマルは自ら倒れこむように身体を横たえていた。
 ぐるりと部屋を確認すると、窓際にある文机の上に氷の入った水桶と手ぬぐい、そして、飲み水の入った水筒。粥の入っている土鍋は白い湯気を放っている。布団の上にもうひとつ浴衣を用意してくれたようで、これならば、汗をかいても着替えさせることができる。
 先の会話のせいで、女将の配慮に胸が痛む。

「やわらけー布団だな…」
「ああ、遊郭と同じ布団なんだろう…重ねて使われるやつだ」
「へぇ…」
「…少し、香がたきしめてある。習慣なんだろうな」
「においはわかんねぇな」
「熱があるからだよ……水だけ飲んで、一度寝な」

 父親の調合している薬を持っていることが分かったので、それは、起きてから粥と一緒に飲ませることにする。
 氷水に浸した手ぬぐいをしっかり絞って、瞼から額にかけてのっけてやる。僅かな時間も置かず、落ちるように眠りについてしまった。やはり相当我慢をしていたのだ。
 電灯を消して、文机の脇にあった常夜灯のみを灯す。すべての輪郭がぼやけるぐらいの仄やかな灯りは、この部屋に似つかわしかった。
 そのまま、窓際に座ると、雨の匂いが強くなる。
 欄干のある連子(れんじ)窓から路地を見下ろすと、濡れた石畳がこの宿から漏れる明かりで照らされていた。
 さあさあという一定の雨音は、思考を鈍くさせてくる。
 古いこの宿は、きっと大戦の時も同じようにあって、この窓からは同じように戦場となった雨の街の風景が見えていたはずだ。
 もしかしたら、父や自分の知る上役たちも、この町で戦ったのかもしれない。女将の息子を殺したのは、自分やシカマルが知る誰かなのかもしれない。
 この里の犠牲の延長線上に、今の自分とシカマルの関係は成り立っている。
 忍である自分だって、戦争は嫌だ。
 けれど、まだ自分たちの所属する世界は混乱の中にある。

 暗い深みに捕らわれぬよう、手を氷の入った桶につけた。ひやり、と冷たい。ずいぶんと長いことぼんやりとしていたようだ。
 慌てて、向こうで寝ている男の方に近づく。
 先と変わりない体勢で眠っていたが、額の手ぬぐいは役割を果たせないほどにぬるくなっていた。取り上げて額に触れると、相変わらず熱が高い。雨音で気づけなかったが、呼吸が荒く、眉間に皺を寄せて苦しそうだ。
 悪い夢でも見てやしないだろうか?できるのなら、かわってやりたい。
 首もとや胸元を見ると、ずいぶんと汗をかいていた。汗が出ているのはよいことだ。その分熱を下げるように身体が戦っているのだから。
 手ぬぐいを冷水で冷やしてから、労わるように丁寧に汗を拭いていく。

『あまりに真摯に他里の殿方を想っているようだったから』

 唐突に、先の女将の言葉が頭の中に降って来た。
 立場の似たこの男が、自分にとって大切な存在であることは確かだ。他里の男ではあるが、一緒に幾度も任務にあたっている。
 木ノ葉の中でも頭脳明晰で、他の里からも一目置かれている忍でもある。
 忍として、人間として、その器を認めている。
 そして、この男の自分への想いも知っている。
 けれど、それに応えられないのは確かなのだ。
 日を重ねるごとに自分の中に占めるシカマルの重要度は増しているのに。 里の違いも、その責任もある自分たちは、今日も会ったのも数ヶ月ぶりのこと。
 せめて、優しくしよう。
 今日はこいつは病人なのだから、優しくしてもいい。
 汗を拭う手ぬぐい越しに伝わる熱に、心が絆(ほだ)されそうになるのを止(とど)めて、最後にもう一度手ぬぐいを冷やして、額においた。

 この宿の雰囲気と、この男が病に臥しているのもあって、先より気分が沈みがちだ。
 気分転換にもなろうと、水桶の水と氷を新しくしてもらいに部屋を出る。
 最低限の灯りだけが灯されている廊下は薄暗く、寒い。
 ここにまで、雨音が聞こえてくる――そうだ、ここは異国だ。私たちの里からは遠い場所だ。
 水を入れ替え氷をもらい、すぐに二階の部屋へと戻る。

 扉を開けて室内の空気が動いてしまったせいか、目が部屋の暗さに慣れてくると、寝ていたシカマルが目を覚ましていることに気づく。
 自分の中で想いをめぐらせていたせいで、なぜか今更、動揺していた。

「――起きた?」

 静かに声をかけると、身体を横たえた体勢のまま、ぼんやりとただこちらに視線をよこしてくる。
 あまりに注視してくるので、さらに自分のなかの動揺が大きくなり、それを打ち消すように言葉を探す。
 
「一度、水飲んで着替えないか?もし食べられるなら粥を一口でも食べて、薬飲もう?」

 水を汲んで冷えてしまった手を熱い頬に載せる。
 未だ無言でいるので、今度は不安になってその顔を覗き込むと、やっと改めて目が覚めたように焦点が合った。

「――ぼんやり、してた……」
「夢でも、見てた?」
「………忘れた」

 ゆっくりと自分の力で体を起こしてきたので、またふらつかないように身体を支える。
 寝る前よりは、身体はしっかりとしているようだ。熱が下がっているのかもしれない。すぐに水筒の蓋に入れた水を手渡して、飲ませる。
 次いで水で冷やした手ぬぐいと新しい浴衣を渡し、着替えてもらっている間に土鍋の粥を火鉢の上で温める。
 ゆっくりと温められてくる粥を見張りつつ振り返ると、着替え終えたシカマルは、壁に凭れながら継ぎ足した水筒の水を飲んでいる。
 疲れたような表情で、やはりこちらを凝視している。

「少しは食べられる?」
「……ほんの少し、なら」
「気持ち悪くないなら、少しだけでも胃にいれるといい」

 明日はもう帰らなくてはいけないのだ。無理にでも栄養は摂っておいた方が良い。水を継ぎ足したので、重湯に近いぐらいに水分が多い粥だ。
 温くなったのを見計らって鍋敷きごとシカマルの側まで運ぶと、彼は匙を取り上げようと体を起こした。ぐらり、と背を壁から離した途端に体が傾いだ。あわてて自分の体を男の横に移動させて、腕を担いで支える。

「…わるい…」
「いいよ、別に」
「なんか、あんた、今日は優しい――」
「おまえ、病人だからな」
「…そっか」

 体を半分こちらに預けるようにして、片手で水のような粥をゆっくりすすっている。やはりまだ身体は熱いままだ。
 前へとふらつきそうになると、抱き寄せるよう腕の力が強くなる。まるで、この男の身体を委ねられているように感じて、それを精一杯意識をしないようにした。
 五口ぐらいで匙を置いてしまったが、この熱ならば善戦した方だろう。
 土鍋を片付け、枕の脇に置かれていた彼の持参の薬をたっぷりの水で飲ませて、もう一度布団に横たえさせる。
 汗を拭いたまま床に落とされていた手ぬぐいをもう一度冷やし、額に当てた。
 一度起きてしまったせいか、今度は目を開いたま虚ろな顔をしている。

「もう一度寝ろ。眠れなくても目を瞑って安静にして。明日は移動しないといけないから」
「……」
「そばにいるから」

 何か問いたげに、凝視してくる。熱のせいで少し緊張しているのかもしれない。
 覆いをするように少しの間だけ、熱の篭もった瞼の上に手を添える。
 ゆっくりと掌を離して、双眸が閉じられているのを見届けてから、もう一度窓際へ向かおうと腰を上げた。

「いつもいないじゃねぇか…」

 囁くような声が背後から聞こえて、脳内で言葉を反芻する。
 意味を図りかねてそちらを振り返ろうとすると、次の瞬間には、背後から熱そのもののような体で抱きすくめられる。
 絞め潰されるのかもしれないと頭が判断したほど、普段の様子からは考えられない配慮の無い力だ。熱でふらついているのに、どこにこの力があったのか。

「ちょっ…」

 全身が圧迫されて、呼吸が苦しい。
 自分を腕の中へ囲い込んでいる身体は、見た目よりもずっとがっちりとしていた。拒みたいのに、拒まなくてはいけないのに、言葉が尻つぼみになる。

「…くるし――」
「…どんだけ、会えなかったと思ってんだ」

 耳元で囁かれ、力任せに近い形で顎をつかまれ、背後から口付けられる。最初から深く進入してくるだけでなく、僅かな隙間を与えないほどに口を塞がれた。
 何が、彼を突然このように駆り立てたのか、自分には分からない。

「――」

 無理やり押し付けられるものから逃れるのではなく、せめて呼吸をしようと顔を傾けたら、その僅かな一瞬さえも阻まれて、頭の後ろを抱えられるようにさらに深みが増してくる。
 余裕のない様子で、切羽詰ったように求めてくる。
 熱に浮かされているのか。薬が効いてきて頭が朦朧としているのかもしれない。理由がすべて分からないままなのに、こちらが翻弄された。
 口付けられたまま視界が反転して、シカマルの顔を仰ぐようになる。

「あんた、強ぇえから、最前線にいなくちゃなんねぇから、次なんてないかもしれない――」
「…私の強さを、見誤るな――」
「強くたって、あっけなく逝くときはあんだろ…―」
「縁起の悪いこと言うな。ッ」

 布団の上に押し付けられ、次の瞬間に再び正面から抱き潰すかのように身体をがんじがらめにされる。
 力に圧倒されながら、女将の話や、父のことが頭に浮かんだ。

――そうだ、こいつも師を失っている。

 直接本人からその話を聞いたことはなかったけれど、この情動の引き金に思い当たる。
 執着するように背をまさぐっている手は、力の加減を知らないせいで痛い。
 発熱して汗ばんでいる体は、こちらの脳を侵すように熱い。
 耳元で繰り返される荒い息づかいは、ほど走る感情のようだ。
 いつも甘えなど見せない人間の、ひた隠しにされている感情が曝け出されていて、逆らう気持ちが起こらない。
 このように想われたなんて、知らなかった。
 ぐらり、と、眩暈がする。

――ああ、まずいな…。

 頭の奥がしびれて意識が遠くにあるようだ。まるで熱をそのままうつされたように。

「――お前、熱のせいで、感情的になって…」
「そんなこた、わかってる!」

 せめての抵抗で言葉を紡いだら、両手に囲い込まれた体勢で逆切れされる。普段が冷静で面倒くさがりなのに、感情的になってみれば驚くほど強気だった。
 熱で潤んだ目は扇情的で、年下の男のくせにやたら色気がある…そんなことを考えてしまった自分が嫌だ。
 苛立ちをぶつけるように再び抱きしめて来る力は乱暴だ。抉じ開けるように口腔に侵入してきた。自分は、どうしても、ぶつけられる感情に抵抗などできない。
 けれど、拒みもしないけれど、受け入れもしないこちらの様子に気づいて、シカマルの動きが止まる。
 
「……ほんっと、めんどくせーな……ちっくしょう――」

 こちらに圧し掛かっていた体を無理やり起こし、体を再び壁に凭れかけさせる。頭痛がするのか額に片手を置いて力を込めていた。
 普段は冷静で、理性やルールに従って物事を処理していくこの男が、私のことで混乱している。
 大切に想っている人間を傷つけてしまい、苦しくてやりきれない。

――謝りたいのか?慰めたいのか?私は。

 どちらでもない。
 自分だって感情が止められなくなっている。
 押し倒されたままにしていた身体を起こして、壁に身体を預けている男の前に進み寄る。

――ずるいな、こいつ。

 熱なんて出して、薬なんて飲んで、心情を吐露するための理由をもっている。
 自分だって愛情の伝え方など知らないのに。

 ――こいつに風邪をうつされて、熱に浮かされているんだ。きっと。

 そして、真正面から愛情を伝えられることなどなかったから。
 初めてだからしょうがない。

「…会いたかったのは、お前だけだと思うな――」

 慣れないまま身体を寄せると、シカマルは一瞬びくりと震えた。
 ――けれど、たどたどしいであろう自分の抱擁に応え、捕らえるように肩に手を添えてくる。
 こちらから思いのままに口付けると、添えられていた掌の力が緩まって、肩を滑った。そのまま角度を変えて領域の中に侵入したら、同じだけ思いを返される。
 一度踏みとどまった分、箍がはずれてしまったのか、シカマルが再び攻勢に出てくる。
 こいつに苦しいぐらいに力を込められて身体に執着されるのは、嫌じゃない。
 されるままに幾度も口付けを受け、熱い掌には体中を探るように這わされる。
 気持ちまで込められて触れられているのが伝わるから、慣れない体なのに解きほぐされていく。

「―――んっ」

 慣れない様子で、力加減を確かめるように首筋に舌を這わせられて、押し殺していた声が漏れてしまう。
 それが火をつけてしまったのか、男の執着が強くなる。首筋を辿る唇が、肩まで下りてくる。
 いつの間にか、熱い掌が、唇とは逆の身体の輪郭を伝うように胸元に移動していた。
 明確な情欲が伝わる――いや、それ以上に、必死に私という人間を希(こいねが)う気持ちが。
 感情は、流されてもいいと思っている。
 こいつならば何も問題はない。
 愛情の深い人間だ。
 応えたい。
 返したい。
 欲しい。
 誰よりも。

 ――けれど。

 右胸に留まっていたその手の上から、自分の掌を重ねる。

「シカマル」

 こちらの意志が伝わったのだろう、ぴたりとシカマルの動きが止まる。
 至近距離で視線が交わった。

「私は、私だけのものじゃない…自由にはならない」
「……わかってる」
「お前だって、木ノ葉の大切な人材だ。けど――」

 掌の、そのすぐ下にある早鐘を打つ心音が伝わればいい。

「聡いお前ならば、どうにかできるだろ?」
「…当たり前だ」
「いつか、すべての問題が片付いたら……―――」

 シカマルの手を腹部へと移動させる。
 こいつを愛しい、と思う。

「お前との子なら、産んでもいい」

 こちらを探るようだった視線が、一瞬見開かれ、硬直したように動かなくなった。腹部にある手の上から力を込めたら、咄嗟に視線を逸らされた。

「…なに、泣きそうになってんだ…ぶり返したか、泣き虫くん?」
「――熱で頭が痛てぇんだっ」
「そういうことにしておこっか」
「…約束、だからな…」
「……ああ、約束だ」

 約束の印とばかりにゆっくりと額に唇が寄せられ、自然と瞼が落ちた。
 次いで唇に優しく触れられる。
 いつの間にか、ここにある空気は穏やかになっていた。

「……約束ついでに、もう一つ…将来、木ノ葉で風遁を教えて欲しい子がいる。駄目か?」

 瞳を閉じたままでいたら、唐突に硬質な声音で問いかけられた。

「風遁?…別にいいけど」

 瞼を開けて注がれいた視線はあまりに真剣だったので、断れるはずがない。
 誰のことだろう、とは思ったが、こいつにとって重要なことなのは確かだ。

「…ありがとう」

 穏やかな、見たこともない笑顔をされた。

「っと」

 こちらの答えを聞いて安心したのか、覆いかぶさるように身体を寄せてくる。
いや、それだけではない。
 寄りかかってくる体を少し支えて、額を合わせる。

「…熱、あがってるじゃないか、この馬鹿!」
「うるせえ――」

 生意気に口答えしてくる。額でも叩いてやろうかと思ったが、所詮は病人だ。
 ぽんぽんと、あやすように背をたたく。

「…いっつもそういう扱いしやがって」

 強がっていても、熱にやられて寄りかかっているのだから、どうしようもない。

「――いっつか組み敷いてやるからな――覚えとけよ」
「ああ、楽しみにしてるぞ?」
「…馬鹿にしやがって」

 喧嘩に負けた子供みたいじゃないか、と微笑ましくさえあったが、熱に浮かされているこの男は本気だ。
 けれど、今は、その真っ直ぐな想いに乗っからせてもらおう。

「…熱があるからな…一緒にいてやる」

 身体を布団に横たわらせて、寄りかかっていた男の頭を胸を貸すつもりで移動させたのだが。
すかさず頭の下に腕を差し込まれ、こちらがシカマルの胸に頭を預けるようにされた。
 病気であろうが相手が年上だろうが、女相手には譲れないものがあるらしい。まったく古臭い男だ。
 こんな扱いは慣れなく、むず痒い。けれど、こいつならば嫌ではない。
 せめて風邪が悪化しないよう、こちらの頭に被りそうなぐらい精一杯布団をずり上げて、シカマルの肩が外気に晒されないようにしっかりと被せてやる。
 
 耳を澄ますと、今まで忘れていた雨の音が聞こえてきた。
 密着させている身体はやはり熱い。
 自分を囲い込んで安心しているのか、すでにまどろんでいるらしい男から聞こえる心音は穏やかだ。
 この傷跡の残る里なのに。
 けれど、またしばらく会えないのだから、許して欲しい。
 里から離れて、雨に、病に、たくさんの理由を用意してやっと触れ合える。

 ―――今、僅かな時間だけでも、私達に安らぎを。





-あめふるさと1(シカマル視点) へ-



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