あめふるさと 2
天井には、橙色の常夜灯の光がゆらめいている。
薄暗くぼやけた視界に、一瞬、どこにいるのか判別できなくなる。夢の余韻にとらわれている。
重たい腕を額にやると、冷たい手拭いがおかれていた。ぐっしょりと汗をかいていたはずなのに、顔や首もとがすっきりしている。彼女が汗を拭っていてくれたことは容易に想像がついた。
かたりと引き戸が開けられ、冷たい空気が流れ込んで来た。
俺が寝ていると思っているのだろう、部屋に入る彼女は音を最小限に押さえるように慎重に移動している。水桶を置く音が雨音にわずかに混じる。
室内の暗闇に目が慣れていないのか、目を凝らすようにしてこちらを見つめて来る。しばらくの沈黙の後、視線が交わった。
一瞬テマリは目を見開く。
「――起きた?」
自分を見据える人の声が遠くに聞こえたように感じて、頭の中で取り逃すまいと反芻する。頭の中の情報がごった煮になっていて、整理されてくれない。
胸がぎりぎりと締め付けられるようだ。何だろう、これは―――。
「一度、水飲んで着替えないか?もし食べられるなら粥を一口でも食べて、薬飲もう?」
テマリはいつの間にやら傍らまで来ていて、やたら冷たい手で頬を触れてきた。火照っている分、心地よい冷感。
先ほど夢現で感じた安心感があった。やっぱりこの人だった。
「――ぼんやり、してた……」
「夢でも、見てた?」
不安そうにこちらを伺っている。まさか、それを言えるわけもなく。
「………忘れた」
夢の残滓を振り払うように身体を起こす。身体を休ませ、しっかり汗を排出して熱は幾分か下がっているのだろう。眠りに落ちる前よりも自分の身体が思い通りになる。
身体を支えるように手を伸ばしたテマリだったが、大丈夫そうだと判断したのか、すぐに水筒の水を手渡してきた。
冷やされた水ではないが、熱に支配されている喉に通すと薄荷飴を口に含んだ時のような清涼感があった。発汗のせいで水分の不足している身体に、そのまま一杯全部を流し込む。
次いで、冷やされたばかりの手拭いと浴衣が手渡された。身体は比較的すっきりとしていたが、来ていた浴衣はじっとりとしている。氷のような手拭いで身体を拭きながら、すぐに着替えてしまう。
カタカタと響く硬い音に視線を向ければ、古臭い火鉢の五徳(ごとく)の上に置かれた土鍋の平行を確認しているテマリの後姿がある。
時間はゆっくりと流れている。
雨の音が涼やかだ。
すっきりした体を、漆喰の壁に凭れかけさせ、水筒の水を飲む。
土鍋に掛かりきりになっているテマリは、水差しの水を注ぎ足し、かき混ぜ、蓋をする。時に蓋に指先で触れ、温度を確かめている。
あまりに日常的で、望んでいたような優しいこの風景が、胸の奥を温かくする。
ずいぶんと長い間押し込めていた自分の感情が溢れてくる。
―――ああ、今、彼女は、確かにここにいる。
飽きずに彼女の動きを見守っていたら、ゆっくりと振り返られる。ぼんやりした様子を見てか、不安そうな表情になった。
「少しは食べられる?」
「……ほんの少し、なら」
「気持ち悪くないなら、少しだけでも胃にいれるといい」
鍋敷きのようなものに土鍋を移し、溢さぬようにゆっくりと運んでくる。鍋蓋を開けるとふわりと湯気が立ち上がる。
明日のためにも無理にでも胃に入れよう。そして薬を飲まなくてはならない。
添えられている陶器の匙に手を伸ばすと、途端に身体が思いもよらぬ方向へと傾いだ。すぐにテマリが自分の傍らに身体を滑り込ませて、左の腕を肩にかけるように支えてくれる。
「…わるい…」
心底情けない気持ちで謝ると、気にするなと、落ちそうになる俺の腕を支えなおす。
彼女は、当然のことのように隣にいた。
「なんか、あんた、今日は優しい――」
「おまえ、病人だからな」
「…そっか」
身体を彼女に預けるようにしながら、水気の多い粥を口へと運ぶ。やけに必死に寄り添っている人との時間を甘やかに感じてしまい、離れがたくて出来る限りゆっくりと胃の中に粥を流し込んでいく。
意識はしっかり抱き寄せている人に向けながらも、胃の中がむかつくのはどうしようもなく、5口目でリタイアした。喉の奥の不快さに一瞬顔をしかめた自分を見つけて、彼女の瞳が揺らいだ。
大丈夫だということを伝えるように手を上げると、不安そうな表情のまま、土鍋を文机の方へ戻し、水筒に水を継ぎ足す。受け取った水で常備していた解熱剤を一息に流し込んだ。そして、汗をかくからもう一杯飲んでおけ、と言われてもう一杯。
脇に追いやっていた掛け布団を整え、身体を支えながら寝かしつけられる。至れり尽くせりの扱いだ。
そしてまた、冷えた手ぬぐいが額に乗せられた。
しかし、頭の奥が冴えていて、眠気はない。
「もう一度寝ろ。眠れなくても目を瞑って安静にして。明日は移動しないといけないから」
熱くて重たい体は自覚しているが、気持ちがざわつく。
「そばにいるから」
真っ直ぐに注がれている視線が熱い、と思う。もしかしたらと錯覚する。彼女がやけに優しいのが、いつもは奥底にある感情を燻ってくる。
なだめるかのように、また冷たい掌で瞼を柔らかく覆われた。
安堵感。かつて、小隊長をして最前線に身を置いて、命の危機を感じ取ったときに現れたきに感じたもの。生まれて初めて命の危機に陥ったときに、師が来てくれた時と同じ。
風を纏って、助けに来てくれた人たち。
ぐらぐらと、視界を閉ざされた頭は、意志の届かぬ力で回転している。
同時に、雨音が思い出させる、喪失感。
じりじりと煽られる。
彼女が背を向け、離れていく。
一番に守りたい里と弟に向かって。
遠くに消えてしまう。
つなぎとめておかないと。
「いつもいないじゃねぇか…」
振り返ろうとした背中を、全身の力を振り絞って抱き寄せた。全力で当たらないと、手に入らない。
柔らかい身体は、ひやりと冷気を纏っていて冷たい。温度差が心地良く、顔を首筋に埋めるとテマリの身体が強張った。
欲しくてしょうがないものが確かに腕の中にある。自分の身体に押し込めるように、さらに両腕に力を加える。熱が指先まで浸透している身体は、節々が軋んでいる。けれど、もう痛みは良く分からない。
「…どんだけ、会えなかったと思ってんだ」
彼女が苦しそうに呼吸をしているのが、圧迫している分だけ直に伝わって来る。
あのがっしりした体躯の師でさえ、あっけなく失われてしまった。けれど、腕の中に捕まえたこの人は無意識の中に守るべきものと刷り込まれているもの。
背後から閉ざすように唇を塞ぐ。身体も思考も、すべてに侵食してしまいたい。
逃れる素振りを見せるテマリの頭を抱えて、舌先で口内をなぞる。息苦しさのせいか、鼻の奥から僅かにこぼれた声は艶めいて聞こえた。
舌先を捕まえると、彼女の緊張していた力が緩められた。口内を支配いていく自分から逃げるように仰け反らせる体を支えながら、床へと押し付ける。
「あんた、強ぇえから、最前線にいなくちゃなんねぇから、次なんてないかもしれない――」
掠れてしまった声で感情をそのままにぶつけた。まるで駄々をこねているようだと、辛うじて冷静さが残されていた思考の一部分で思う。
「…私の強さを、見誤るな――」
「強くたって、あっけなく逝くときはあんだろ…―」
「縁起の悪いこと言うな。ッ」
覆いかぶさり、掻き抱くようにして、彼女に絡みつく。
あの夢に、彼女は確かに関係ないのに、頭の中が混濁している――けれど、人などあっけなく失われる。それは強い彼女とて同じこと。どうすれば、この人をつなぎとめることができるのか?
こちらから伝染するように熱を帯びてきている体を、床に縫い付けたままに全てを絡め取るように両手で身体を探る。
物理的に囲い込んでも、どうにも昇華されない感情のせいで息苦しい。テマリは抵抗するでもなく、身体の力を抜いてこちらの自由にさせていた。
「――お前、熱のせいで、感情的になって…」
「そんなこた、わかってる!」
淡々とした声音で言葉を紡ぐ彼女に苛立つ。やたらと感情的になっているのは、自覚していた。
至近距離から彼女の瞳を覗き込むと、押し倒されて囲われた状態のテマリはまっすぐに視線を返す。どうしていいのか分からないように目を見開いて、荒い呼吸をする自分を見つめている。感情的になっている自分と対照的なその様子に、さらにささくれだった感情が逆撫でされる。
八つ当たりもいいところだ。しかも、何も悪くはない彼女本人に。
欲求のままに手荒く抱き寄せる。
普段は頭に統制されている感情が、やたらと今は身体を支配してくる。突き動かされるように彼女を手荒に扱って、それでいてどこかで満たされてもいるのだから。
引き結ばれている唇に噛みつくように口づけた。咥内に舌先を割り込ませても、拒まれない。
けれど、許されていない。
届かない。
「……ほんっと、めんどくせーな……ちっくしょう――」
重たい体を無理矢理引きはがして、倒れ込むように古びた壁に身体を預ける。彼女のことで、感情の固まりのようになっている今の自分が滑稽だった。
全身が脈打っているかのような身体を、その情動押さえ込むように額に手を当て、力を込める。
落ち着け。いつものように。
頭は熱くて重い。
ゆっくりと息を吸い込むが、少しの動きでも痛みが響いた。
落ち着いてくれ。
「…会いたかったのは、お前だけだと思うな――」
無音のように感じていた空間から、唐突に掠れた声が割り込んで来た。現実に引き戻されるように目を開く瞬間、柔らかく包まれる。
何が起こったか、現状把握がワンテンポ遅れた。
全身を俺に預けるようにして次第に込められていく力を認識した途端、心臓が震える。躊躇いを見せつつもこちらの肩に埋められたテマリの呼吸を感じて、何が現実なのかを理解できた。
条件反射のように、その肩に手を回す。
一瞬目に入った潤んだ瞳に囚われてていたら、精一杯に口付けられた。するりと、入り込んできたものに、やはり反射のように応える。
これが夢だとしても、この幸福感は、確固としてここにある。
ふつり、と。熱だけではなく、足枷になっていたものが消えたのを実感した。再び、床にテマリを横たえさせて覆いかぶさる。幾度口付けても、終わりが見えない。
眩暈がする。
首筋に口付けながら、その肌を確かめていく。やわやわとして、手で触れるよりも鮮明にその柔らかさが感じられた。しがみ付くように背に回されたテマリの手は、自分の舌の動きに呼応するように揺らいでいる。一瞬だけ漏れ零れた声音に、身体の芯が熱くなる。
随分肌蹴てしまった浴衣を鼻先で押しやるように広げて、鎖骨を舐める。薄い肌越しに彼女の構成しているものを感じて、本能が煽られた。
衣服の下に隠されている、日にあたらぬ白いその肌に印をつけようと、唇を寄せて吸い付く。歯を浅く立てて舌先だけで赤みを帯びつつあるその表面を辿る。
欲しい、という衝動が身体を突き動かしていた。どうにも止められない。
右手が布越しにテマリの心臓の上の膨らみに触れる。ゆっくり力を込めてその柔らかさを確かめながら、その下にある心音を探った。
彼女が生きている、核心。
守りたいもの。
この人の未来を自分につなぎとめるために、今、彼女を抱いてしまえばいい。
「シカマル」
ぐい、と乳房に伸ばしていた右手が彼女の手に包まれた。明確な意志がそこにある。
熱と衝動の膜がぱりんと割れて、思考が舞い戻ってきた。焦燥感と一緒に。
至近距離のその顔は、さんざ体中を自分が愛撫しつくしたせいで、蒸気している。けれど、その瞳は。僅かに潤んで見えるその双眸は、強い覚悟を伝えてきた。
「私は、私だけのものじゃない…自由にはならない」
「……わかってる」
「お前だって、木ノ葉の大切な人材だ。けど――」
胸の上、ちょうど心臓の真上に押し付けるように女の手に力が込められる。
「聡いお前ならば、どうにかできるだろ?」
右手にその心音が直に伝わる。ばくばくと常ならぬ速さで脈打つそれは、彼女の気持ちなのだと分かった。
「…当たり前だ」
「いつか、すべての問題が片付いたら……―――」
手をつつむ力はそのままに、彼女の肌を沿って右手が移動させられた。気づけば右手はテマリの腹部に置かれている。
「お前との子なら、産んでもいい」
――今、与え得る最高の約束をくれる。
それは、不思議な感覚だった。
あの、やがて生まれ来る師の子を宿した体が想起させられる。これからの自分次第で、いつかの未来に、生命を宿した彼女にまた触れられる。自分の未来に彼女がいる。
重ねられているテマリの手に力が込められる。感情が具体的に溢れそうになって、思わず目をそらした。
「…なに、泣きそうになってんだ…ぶり返したか、泣き虫くん?」
しんみりとした表情とは打って変わって、またこちらをからかうように笑っている。それは、彼女にとっても照れ隠しなのだということも、もう分かっていた。
熱のせいだと見栄を切ると、そういうことにしておく、と子供にするように宥めて来る。
――けれど、彼女は未来を約束してくれた。
「…約束、だからな…」
「……ああ、約束だ」
いつもは砂の印をつけている額に、祈りを込めるようにゆっくりと唇で触れる。
鼓膜にたどり着く雨の音が優しい。
こちらの欲求で酷く扱ってしまった赤い唇に、触れるだけの口付けをする。
唇を離すとテマリは眠るように目を閉じたままでいる。安らかなその様子を見て、ある欲求が生まれた。
「……約束ついでに、もう一つ…将来、木ノ葉で風遁を教えて欲しい子がいる。駄目か?」
身体を弛緩させたままにテマリが瞼を上げた。凝視してくる瞳を目を逸らすことなく見つめ続ける。
「…別にいいけど」
少し疑問を孕んだ声音ではあったが、断る素振りなどは寸分も見せない。当たり前のように自分の背負う未来に応えてくれている。
「…ありがとう」
穏やかな気持ちで、自然と笑みがこぼれる。
疾風怒涛のように体内に渦巻いていた感情が、ふわりと昇華されたような。
心が温かい。
「っと」
一瞬意識が消えたかと思いきや、なぜか彼女に縋っているような体勢で抱き寄せられている。いや、支えられている。
「?」
訳も分からぬまま、こつん、とひんやりしたすべらかな額を合わせられた。
「…熱、あがってるじゃないか、この馬鹿!」
至近距離にある表情は、先までの柔らかなものではない。なぜか頭に浮かんだのは、朝からいちいち煩い母の顔。
「うるせえ――」
甘さの欠片もないその叱責ぶりに、ちょっと反抗心が芽生えた。けれど、むう、と口を結んだテマリは、俺の身体をもう一度抱き寄せて、ぽんぽんと緩やかな力で背を叩いてあやして来る始末。
「…いっつもそういう扱いしやがって」
毎度、弟と同じような扱いをしてくるが、今はもはや親子のそれ、だ。
イラつく気持ちはあったが、けれど、今は再び襲い掛かってきた頭の痛みに負けてしまう。せめての抵抗で、間接が痛みを伴って軋む片手を伸ばし、彼女を抱き寄せるようにしながら口を開く。
「――いっつか組み敷いてやるからな――覚えとけよ」
「ああ、楽しみにしてるぞ?」
馬鹿にしやがって。いつか必ず来るその時は、せいぜい目一杯うろたえさせてやる。
「…熱があるからな…一緒にいてやる」
こちらの決意を知らぬテマリは、こちらの身体を少し移動させて、まるで胸に俺を抱えるように布団に身体を落ち着けさせている。まるで男女が逆転している構図に耐えかねて、その頭の下に腕を差し込んだ。今は闇に沈んでいるふわふわした髪に触れながら、テマリの頭部を腕と胸に囲うようにする。抵抗はされなかったが、彼女は掛け布団を引っ張り、こちらの肩に被せてくる。
しばらく身体に力を入れて、こちらに体重を預けきれずにいたテマリだったが、ほどなく身体の力が抜けてきた。
腕の中にこの人がいることで、こんなにも満たされている。意識が遠のいていく。
遠くで、雨の音が聞こえてきた。雨音はもはや優しい響きを持っている。
今ひとつ、乗り越えなければならない強大な問題はそこに確かにある。
けれども、ここにある安らぎは疑いようも無い。
――どうか、今日この日が優しい未来に繋がるように。
-了-
2010/0422