あめふるさと 1


 久方ぶりに会った彼女は、雨に濡れて、なぜか儚く見えた。 


 ごうごうと鳴る風を操り、時にふわりと風を纏って雨の中を駆ける。
 久々にテマリの戦闘を間近で見ることができ、任務前にあった懸念点はいつの間にやら払拭されていた。無駄のない動きや、しなやかな身のこなしに見惚れていることに気づく。

「任務完了、だな」
「…ああ」

 周り残党がいないか確認をしていたテマリが背後まで来ていた。影で抜忍たちを捕縛し、全員に術をかけてひとかたまりにまとめる。
 雨が、作戦開始時よりもひどくなっている。
 俺が頭の中で組み立てた戦略よりも現実のテマリの動きが的確で、快い方向に裏切られながら、戦況を引導してくれた。
 指示を出し、進捗をしながら、こちらは全体を把握しておけばよかった。

 雨隠れの捕縛部隊がやってきたので、抜忍を引き渡す。任務が完了したと思った途端、雨の音が異様に大きく聞こえてきた。緊張がゆるんで、肩の力が抜ける。
 テマリと何とはなしに会話をしていると、急に額に手をかざされた。

「…やっぱり。いつから?相当熱が高い」

 ぴとりと宛がわれる女の掌は、雨に濡れてやけに冷たく感じる。
 テマリと宿場町で合流した頃に喉の奥がひりひりしていたのは確かなのだが、さして気にもしていなかった。今、改めて己の身体に意識をやると、ずいぶんと熱が上がっていることに気づく。
 道理で頭の動きが鈍い。思い返せば、彼女の戦闘をまるで遠くの映像を見ているように見つめていた瞬間があったのだ。
 普段の任務ならば体調管理の不備などありえないが、この慣れぬ気候は如何ともし難い。
 せめて今夜はこちらの宿で安静にしていれば、明日には帰路につけるだろう。彼女のおかげで、手早く任務も完了しているし、時間に余裕はある。
 そう告げると、テマリが付き添うと主張してきた。

「三日後には次の任務あんだろ。一人で大丈夫だ…」
「ふらついてるぞ?大丈夫なもんか。どうせこの任務に明日いっぱいまで時間あててあったんだ…一緒に行く」

 何だか有無を言わせぬ、まるで子供を保護する親がするような顔に見えたので、断ることが出来ない。彼女は弟を想う時によくこんな顔をする。
 テマリはもう、人員の少ない砂隠れの要人だ。彼女の時間を自分の看病などに当てさせるわけにはいかないことは重々理解していた。
 けれど、熱に思考を侵されて、気が弱くなっているのか。
 あと少し、同じ時間を共有できることが嬉しかった。


※ ※ ※


 ざあざあとやけに耳につく雨の中、宿を探しに出たテマリを大門で待つ。
 峠の麓の集落は、日の沈んだ雨の中、消えてしまいそうな灯火のように薄明るく滲んで見える。
 次第に熱のせいで痛みの増してきた頭を騙しながら、背を門柱に預け、街を眺めやる。
 ざっと見て、片手で数えられるぐらいにしか人が見当たらない。見る限りは一般人ばかり。
 店の軒下の赤い雪洞(ぼんぼり)が雨に揺らめく。
 やたら物悲しく、心細い風景だった。
 ぼうっとしてその情景を見ていたら、ずきりと切り込むように頭が痛み、眩暈がした。目を瞑り、頭を地面へと傾けることで痛みを堪える。
 雨の音が、近い。
 頭が割れそうに痛い。

「大丈夫か!?」

 空間を割って現れたように、耳元でテマリの声。
 頭痛を一瞬忘れて顔を上げると、ほど近くに、こちらを覗き込む不安そうな顔があった。目を瞑っていただけだと返すと、とにかく急いで宿へ行こうと促される。
 いつでも支えられるように考えてか、普段より腕一本分近く、真横でテマリが道を案内する。
 身体全体が熱いし、波のように繰り返される頭痛は神経を通じて全身を巡るようだ。
 けれど、ふわふわした安心感がある。身体を支配する熱が色々なものを剥ぎ取っていくせいで、先ほどからやたら甘えた考えが脳内を巡っている。
 昔は遊郭だったという鄙びた宿に入り、宿泊の意志をテマリが告げるのを聞く。ぼんやりとしている間に、あれよあれよという間に部屋に入り、浴場に案内された。

 雨だか何だか感覚が分からなくなっていた身体に、柚の浮かぶ湯船の湯は利いているようだった。本来なら好きな部類に入る柚の匂いはあまり分からなかったけれど、テマリに渡された氷の冷たさは額に心地よい。
 時間を普段よりも時間をかけた入浴を終え、のたりのたりと重い腕を上げて身支度をする。
 遠くに声が聞こえる――テマリと女将だろう。話の内容までは分からない。
 重たい浴室の扉を開け、ひんやりとした廊下に出ると再び頭がぐらりと傾ぐ。背を壁に預けて堪えていると、合図をしたわけでもないのにすぐさまテマリがやってきた。

「大丈夫?」
「――ぁあ」

 情けなくも、肩を担がれるようにして二階の部屋へと向かう。
 女に面倒見てもらうのはやはり抵抗がないでもなかったが、テマリが真剣で甲斐甲斐しいのと、肩を預けているその身体がやけに冷えていたので、大人しくそのままでいる。
 ゆっくりと湯船に浸かっている間に彼女も入浴を済ませたらしかった。急いだのだろう、髪も濡れたまま冷えてしまっている。
 床に沈むように身体が重いのは確かだった。その状態に甘んじるように、身体の不自由を装って心持ちだけ身体を寄せる。
 自分に伝わるひんやりとした体温の分テマリに俺の熱が侵食していくのを感じて、気持ちが落ち着いた。

 身体を布団に横たえると、身体の熱さと痛さを凌駕するような眠気が襲ってきた。眠りに落ちる前に薬を飲むべきなのだろうが、胃は空っぽだ。そして、何かを胃に入れるには、もう身体が動きそうにない。
 治癒のためにすべきことは分かるのだが、動かない体はどうしようもない。
 悶々としてただ目を瞑っていると、テマリから一杯の水を手渡される。これだけは飲め、と。
 肩を支えられ、布団に根を張ってしまったような身体をなんとか起こして飲み干す。
 身体が沈みそうなやわらかい布団に戻ると、今度は熱い瞼と額を覆うように冷えた手ぬぐいが宛がわれる。気持ちがいい。
 ふ、と最後の思考力が消滅し、身体の力が抜けた。
 ああ、大丈夫だ。
 彼女がいるから、いてくれるから、ひとまず眠っても良い。後は彼女が何とかしてくれる――。

 ざあざあと、雨の音。

 あの日も雨だった。
 ざあざあという荒々しい音が連なって、重なって、何とも判別しがたいこの空間は、もはや無音にも思えた。音は近いのに遠い。
 その光景を、黙って目に納めていられるほど、その時の自分の心に余裕などない。その傍らに佇むことのできる二人を、強いと思う。
 見ていたくない現実から視線を逸らし、身体も背ける。
 ばしゃりばしゃりと、あの時足で蹴ったぬかるみの感触が、今更蘇る。
 タバコの匂い。咳き込んだ喉が痛い。
 一気に吐き出されてしまいそうな感情を堪えて、熱くて重い塊を飲み込まされたようにひきつれる。喉の奥がくぅと鳴る。
 肺を押しつぶされるように、呼吸が苦しい。
 身体が熱い。
 あの情景を忘れない。
 目に映る滲んだ色彩も、耳に断続的に聞こえる音も、鼻につく匂いも。
 忘れられない。
 額からつたってくる雨は、もう温度など分からず、滴の感覚が額に、頬に、走る。

 胸が空になったような、体中の力があらがえないものに弛緩されていくような、喪失感。側にいてくれた温かいものは唐突に消える。
 奥底に寝かしつけておいた感情は、その遺志を継ぐと心に決めて、ずいぶん昇華されたと思っていたのに。

 風が吹いた。
 暗い気持ちを吹き飛ばして、安心感が胸に生まれて来る。
 風は師の力だ。
 全てをなぎ払うかのような、強くて清涼な風だった。
 風は彼女の力でもあった。
 





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