花と嵐 4「ああ、お久しぶりです」
振り返った人は、息を乱すこともなく、本当に町中で出くわした時のようなありふれた挨拶を発している。カカシやアスマと同世代であろうテマリの師は、さらりとした整った嫌みのない笑顔を浮かべていた。
「…もう、逃げませんか」
「ええ、せっかくあなたがきてくれたのだから、こんな懐かしい場所がおあつらえむきでしょう」
さらさらと、水を流すように淀みなく言葉を紡いでいく。命を狙われている人の言葉とは思えないその落ち着き。かつて教えた生徒と今から刃を交えるというのに。
「……私が来るのを待っていたの」
「教え子と本気でやりあえるのもこれまた幸せだ」
――さあ、どれだけ成長したか見せていただきましょうか。
「悪趣味な…」
「上忍にもなって、がっかりさせないでくださいよ」
どうもかみ合わない会話だった。あえてそうしているのか、元々そうだったのかは分からないけれど。
「行きます、コウサ、上忍」
テマリも会話を続ける気はないようだ。すっと扇を構える。
対して、向き合っているコウサは身動きしない。ただテマリを見つめたまま立っている。
テマリの主導で決戦の火蓋は切って落とされた。とん、と僅かな砂ずれの音を立て、舞うように優美に風を引き連れて飛び上がる。風を操る彼女の空中での静かな動きは、スローモーションのように目に焼き付けられた。
「サクラ」
シカマルと自分は距離を置いて庭木の側に控える。
いつでも術を発動させられるようにシカマルは腰を落とした。自分もクナイを手に取り、その戦いを見守る。
ぎゅっと両手に力がこもる…どうか、できる限りの静かな結末を、二人に。
二人の戦いは、目に見えぬ風の力のぶつかり合いだ。余波を受けた地や木々がすさまじい音で崩壊し、轟音を立てる。時に、真空が生まれ破裂音がする。風が生んだ鎌鼬はさらに万物を切り裂く。
爆音の中心にある二人は、風の速さで一定の距離を取りながら移動している。たん、たん、たん、とまるで定型のある舞のようだ。
ずっと一緒に、こうやって鍛錬してきたのだろう。その呼吸、間合い。同じ時間を共有して理解しているからこその。
私も、きっとチームを組めば今でも同じ呼吸で戦えるはずなのだ。ナルトと自分としばらく顔もみていない彼で。そんな未来はもはや自分の妄想にすぎず、ありえないなんて、分かっている。けれど、心の奥底へ沈めて頑丈に蓋をしても、こんな時にぽっかりと突然出てくるこの想いは、まだ彼を信じていた。
まだ、昔と同じ関係のまま成長している彼を、信じたかった。
● ● ●
旋回させた扇で暴風を起こしながら、同時に防御をとる。なかなか距離を縮めることのできないその対象からは、今日も感情を読み取れない。
ざああ、と土塊(つちくれ)と乾いた木々の飛び散る音。二点から繰り起こされる強風のせいで、ぐるりのものたちが破壊される音が鳴り響く。
けれど、自分の身体に雪は静かに舞い降りる。台風の目のように、風の中心はいつも静かだった。
静かに。
忍が人を殺めるときには、ただ、静かに。
ただ、殺される本人もそうと気ずかぬぐらいに、苦しませず。
アカデミーにあがるよりも前。すでに自分は体に染み着くように修得していた教訓が、今更頭にで反芻される。
「っ!」
後ろに跳躍し、四方から同時に迫った風から逃れる。一瞬前まで自分がいた場所で、一点に消失するように風が集まり、地を抉りながら爆音が響いた。予断を許さない力は、自分を追い詰めてくる。
幾重もの風の防御にねじ込ませるように、クナイに力を纏わせて空中より放った。静かに繰り出される波線攻撃の風を切り割き、クナイは静的に構えているコウサの右脇を掠める。縫い付けるように切り裂かれた砂払いの布が、打ち捨てられる。
見慣れた、砂の忍服姿が見えた。あの日々と寸分違わない。
次第に息は上がってきていたが、頭の中はずっと冷静だった。
大丈夫だ。
いつものようにできる。
『逆らえぬものがあります』
決まった未来ならば、近しい者が手を下すのが良い。
こちら本気を、相手への餞(はなむけ)に。
万物を打ち砕く力を扇に寄せ集め、一息に放つ。
『進めばいい』
――考えるな!
喉元に向けて一直線に放った風の刃が、急所からわずかにずれる――ずらしたの自分の僅かな迷いだ。押し寄せる後悔のままに、ぎり、と握る扇の鉄の柄に力を込める。
目の片隅で、息をつめてこちらを見ている二人を感じていた。
これから心を強く鍛えなくてはならない二人の、真っ直ぐな強い視線。心に培われてきた温かいものを削って、代償とすることになる。
失態などみせられないのに。砂に学ぼうとしている人の前で、自分の心が木ノ葉の温かさに傾(かし)いでいる。
○ ○ ○
「…三年かけて、私は何を教えたんでしょうね」
まるで打ち合わせをしたように、同じ間合いで打ち、退け、時に交わる風の力は拮抗しているように見えた。相手がテマリの動きの基礎を作った人だということが嫌というほど分かる。
純粋な風の力はきっとテマリの方があるはずなのに、同じスピードですべてを切り替えされている。きっと教えた人の強みなのだろう。
すべての動きを防がれて、テマリの動きが変則的なものになる。けれど、相手に致命傷を与えるような攻撃をテマリは打てていない。
「砂の忍として教えたのに。外交なんぞやって、生ぬるい気持ちになってるんじゃないですか」
甘えを許さぬ、確かな師の声だった。
「そんな甘さがくだらない野垂れ死ににつながるのですよ。お父様と一緒だ」
容赦ない。テマリの逆鱗に触れ、煽ろうとしている。
「何のために忍をしている」
テマリが重たい音を伴って地に下りたつ。右肩に傷を負っているようで、片腕全体が朱に染まっていた。距離を置いてコウサが音もなく着地する。こちらは傷一つ見当たらない。
「逃げるな」
扇を虚空へ投げ遣り、テマリが身を隠す。次の瞬間、コウサから三歩の距離から、風の力を纏った体ひとつと取り出した懐刀でそのまま切り込んだ。
「……コウサ!」
死線など幾度も切り抜けた自分なのに。冷淡に師に切り込む彼女の威圧感に、恐怖した。
「ねえ…」
思わず隣で控えているシカマルに声をかける。返事は返されない。
シカマルは目を開いて、今、目の前で起こっている事象を見据えている。師を殺めようとしている人を、すでに師を奪われた彼は見つめていた。彼女と、同じ視線になろうと。
…私がやるんだ。
チームメイトなのは私だ。
一番に、ありったけの心で想っていたのは自分だ。
いつの間にかその表情も見える距離まで移動して来たテマリが、風の力を纏う懐刀を振るった。風を斬る音が響く。込めている力を、そうとは感じさせない間合い。
コウサの頭の背後にあるがっしりとした古木が一線にひび割れている。無駄を削り取った、研ぎすまされた力だった。
冷淡な表情で、最小限の動きで立ち向かうテマリ。整った顔に、ぞっとするような凄みがある。
砂の忍だ。
劣悪な環境の中で鍛えられる、少数精鋭の。
里内ですら絶えず生存競争を強いられている、忍。
「中途半端な優しさなどもって…傷つくのが怖いか」
もつれ合うように、幾度も風の刃を切り結ぶ。見ている方は、もう胴体視力の限界だ。
りぃんと、精度の高い炭を打ち付けるような、軽くて硬質な音が重なり合うように響いている。
避けきれない風の力を受け、どちらのものとも分からない血しぶきが飛ぶ。
視界を遮るほどになっていた降雪が、光の乱反射のように方々に舞い上がっていた。
「ねぇ…」
どうすればいい。
「サクラ」
シカマルも惑っているはずだ。
「でも…」
見たくない、こんなもの。
「…こらえろ」
受け入れたくない、そんな未来。
「でも!」
声が震える。
「手を出すんじゃねぇ」
一瞬見下ろした視界に入ったシカマルの表情はいつもと変わらない。彼も同じものを見つめている。彼ならば、冷静な表情で仇を討って戻ったときのように、次に進めるのだろう。
握る拳にさらに力が篭る。
ザン、と、今度は重たい風の力がテマリから飛ばされる。とうとう、コウサの衣を掠めて割いた。
「自分がかわいいか」
こちらの心をも抉る言葉。
その行動と言葉で、まるで殺されることを望んでいるかのように明らかにコウサはテマリを煽っていた。テマリの動きが、さらに速さを極める。息をつくのも惜しいように、留まることなく迎撃と攻撃を繰り返す。
目が逸らせない。
目は逸らさない。
私に、できるのか。
● ● ●
周りはさざめいて轟音にひしめいているだろうに、自分は厚い水の壁の中にいるようだった。無音の水の中、自分の荒い息遣いが響く。
身体は最大限に動かしながら、視界に映るものたちを、まるで映像を見ているように静かに見据える。
打ち捨ててあった扇を拾いあげる。裂傷した肩からの血が指先まで到達していた。けれど、赤い腕に痛みは感じない。
木ノ葉の二人が、目を見開いて見届けようとしている。
握られた拳は、私を想って。そして、自分達の未来を想って込められた力だ。
優しい、人たちだ。
常の任務ならば、心乱すことなく遂行できる。
けれど今、近い未来に自分の心に起こることがわかるから、躊躇う。
まだ、私は未熟だ。
「…先生!」
三年は短いようで長い。
不安な日々の中で、私をちゃんと見てくれたから。
ほんとうは、嬉しかった。
なんで、こんな終末なんだろう。
この苛立ち、このどうしようもない憤り。
行き先が見つからない。
悲しんでなどやるものか。
後悔などするものか。
怒れ!
怒れ、怒れ、怒れ。
恨め。
進むために。
考えてはいけない。
怒れ。
一瞬でも、悲しみを許すな。
許すな!
怒れ。
心はすべて怒りに。
怒れ。
情などはいらない。
怒れ、
そんなものはない。
怒れ。
なくていい。
怒れ。
進め。
怒れ、怒れ、怒れ!
『迷うな、逃げるな、目を逸らすな』
進め!
○ ○ ○
ぎり、と隣にいるシカマルから摺れるような鈍い音がした。力を発動することなく印を結ぶ形をとった両手に、食い込むような力が込められている。
自らの思考を追い出すように、身体能力の限界ほどの勢いで攻撃を繰り出していたテマリは、その両手に力を集めていた。
唐突な静止の後、扇を構え、真正面から殴りかかるような勢いでぶつける。
『知らない者よりも近しい人がいいね。私なら』
屠られる者も、屠る者も、同じだけ傷つくんだ。
けれど、これ以上に本音を伝えることもないのかもしれない。
「…先生!」
気づけば、同時にもう一人、敵陣に飛び込む自身の身体を正面から見送った彼女がいた。認識する刹那の速さでその師の背後に。
確かな致命傷を負わせる場所を真っ直ぐに。
風の刃で、
貫いた。
いつも彼女に感じていた風が、ぱたりと止んだ。
無音の、無風の、静寂。
返り血を僅かに浴びたテマリは、目を見開き、あっけなく躯になっているものを見つめている。
その強い瞳から、光が消え――。
だめだ。
みたくない。
いやだ。
ただ、見つめることしかできない。
できない。
けれど、これは現実。
いつか来る、現実。
この手で。
いつか。
「――ッいやぁぁぁあぁ―――!!」
押し寄せたのは、痛みと、よくわからない混乱。滲む視界の中、テマリがこちらを見つめているのが分かった。
降りしきる雪が月光に淡く色づいて、まるで潔い、散りゆく桜吹雪に見えた。
「……ぁ…ぅ…ッ…」
ただ棒立ちで、どうしようもない涙に翻弄される自分。目前でテマリはコウサの死を確認している。
立ち上がり、テマリの側に駆け寄ろうとしたシカマルは、一歩目で足を止めた。
近寄れない。
丁寧に、その身体を検(あらた)めている。温度を失いつつある身体は、ゆっくりと検分され、終えると整えられる。テマリは物言わず、感情も気取らせず、処理を施していた。いくつかの所持品を取り出した後、躯に印を施し最後に手を合わせた。その感情を取り払った表情は、その弔われた人に似ていたのだと今更気付く。
尊いその場面をシカマルと一緒にただ目に焼き付ける。
鳴り響く遺体回収処理班への連絡の笛の音は、音を高く細く響かせて、さながら弔砲(ちょうほう)のように物悲しい。
任務を終えたテマリは、しゃきりと背を延ばして、いつものように凛としてこちらに歩み来る。その瞳は先の無機質なものではなかった。
「ありがとう」
「―――ぅ、っ……」
再び、切迫してわあわあ泣き出す自分に、驚くほど優しい顔を向ける。
「ありがとう、春野、奈良」
「――…ッ…っ……」
「ありがとう……サクラ」
そしてなぜか、ごめん、と謝られた。
隣で見守るように無言で立ち尽くしているシカマルを振り返る。もう、シカマルも常と変わらない表情をしている。
「…遺留品を検めるのに…少し手を貸して欲しい。戻ろう」
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